Here's to the ones who dream

2017年の2月に日本公開された、ミュージカル映画の『ララランド』。主演のエマ・ストーンも、ライアン・ゴズリングも大好きな俳優さんだったから、意気揚々と劇場に見に行った。

終映後、座席でさめざめと泣いていた。

その時の感想を、転載する。

 

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『ララランド』を見た。
2015年の年末から年明けにかけて、短いながらLAでドン底生活をしていた身にとっては、作品の舞台が同じLA(しかも私が滞在していた同じハリウッドエリア)であること、泊っていたAirBの近くにあったグリフィス展望台がキーポイントとして使われていたこと、自分がその時していた恋愛が彼らの物語越しにありありと見えてしまったことなど、なんか無性にリンクする部分が多くて、エンドロールが終わった時には「誰か私を一人にして、大声で泣かせて!わーん!」と切に思った。(そして「あと5回見る!」とも)

 

もちろん、いまの私の精神状態では、たぶんどの恋愛映画を見ても「私の恋みたい!」って思ってしまうこと然りだし(現にこの前見た『マリアンヌ』も「共通点!」と感じてしまった。冷静に考えると「どこが?」なのに)、どちらかと言うと私たちが送った2015年LAライフは、『ララランド』より俄然『タンジェリン』だったから、自分の感覚がおかしくなっていることはわかっている。

 

彼と別れてから数か月。本当に”終わった”となってから約1か月。毎日泣きぬれて睡眠不足とか、ヘンに猟奇的な感じの元カノになってしまったとか、恐れていたようなことはなく、けっこう普通に日々を送れている気がする。もちろん、気を紛らわすために習い事始めたり、久しぶりによく本を読むようになったり、携帯電話からの距離を置くために充電器を寝室からリビングに移したり、一人で手持無沙汰な時間を無くすため恐ろしく早寝するようになったり、変化はある。だけどなんとか、生きている。失恋しても死ぬわけじゃない。英語だとBroken heartと言うし、これは本当にぴったりな表現だと思うけど、だけど心臓は止まらない。毎日は続くし、日常は続くし、人生は続いていく。

 

彼と付き合っていた時、私は夢を見ていた。文字にすると、口に出すと、どうあがいたって「やめた方がいいんじゃない?」的な恋愛でしかなかった私と彼の関係だったけど、私はその底辺や逆境を乗り越えれば、どうにかなると思っていた。好きだったし、大好きだったし、そんな人と会えて、奇跡的に両想いになって(本当に思う、好きな人に好かれるのって、億万分の1の確率の奇跡だ)、一緒に過ごしていた。それがすべてだった。彼と逆境を乗り越えていく、というのが夢で、それが終わった後のことまで頭は働かなかった。人生は続いていくのに、私の夢はそこで終わりで、夢が終わった後のことは、想像すらできていなかった。

 

『ララランド』は、”ミアとセブのテーマ”という主旋律が、様々なバージョンで奏でられる。ピアノでひとり、美しく、寂しく。トランペットが入って、ドラムが入って、華々しく、明るく、楽しく。自分の声が入って、誰かの声が入って、歌になって、響く。きっと人生(さっきから「人生」てばっかり書いてて重苦しくて、できれば軽くlifeって書きたいけど、それもなんかしっくりこないから、とりあえず人生って書く)もそう。同じ人生をどう生きるか。どう演奏するのか、どう音を加えるのか、どう音を引くのか。それによって同じような毎日は、たぶん絶対、ずいぶんと変わってくる。
劇中でジャズミュージシャンのセブが言う。「ジャズは言葉が通じないところで、コミュニケーションをとるために生まれた。ぶつかりあい、譲り合って、音が生まれる」。

そう、まさしく、恋愛だ。

 

45『ラ・ラ・ランド』 | 映画好きのちょっとしたブログ Hyuga ...